清水哲男の「鹿児島・天文館徒然草」

南九州最大鹿児島の歓楽街、天文館でひろったよしなし事をつれづれなるままに。たまには鹿児島を飛び出して。

仕事

第千五百十一段 ほんとにぼくはへたくそなんだ

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西口克己「祇園祭」
いま読んでいる本1冊目。時代小説に関心があって、西口克己小説集を読み直している。
活劇としての時代小説ではなく、圧政に抗う民衆のありのままを描くそれを。


 「ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう」
 こんな素敵なことを言ったのは、多分植草甚一さんだったと思う。そう1984年だか85年に上梓された本のタイトルだった。
その中のいちばん最初のコラム『こんどのクリスティーはどうだろうか』の冒頭には、こんなことが書かれていた。

「いま読みかけのミステリが4冊ある。1冊ずつ片付けてしまえばいいのに鉢合わせになるおもしろさというのがミステリにはあるから、いつもこうなってしまうし、そこへまたほかのが割り込んだりするので途中まで読んでつまらなくなったのは、いつのまにか題名まで忘れてしまっている」

 植草さん、いや親しみをこめて「J.J.おじさん」と呼ぼう、J.J.おじさんのコラムはいつもこんな書き出しではじまる。それがジャズの話でも、映画の話でも、小説の話でも、こんなふうな日常の断片からふらっとはじまるのだが、いつのまにか読み応えのある評論になっていく。ぼくがまねしようかな、なんて思っても足もとにもおよばないや。だからJ.J.おじさんが亡くなって35年近く経つのにいま読んでも、へえこいつはすごいやって感心させられる。ジャズのことやら、映画のことはほとんどJ.J.おじさんのコラムで勉強したといってもおおげさじゃない。

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岡本仁「続・ぼくの鹿児島案内」
26日にイベントでご一緒する岡本さんを知るために読んでいる。軽快なコラムで構成されている。


 えっ、いったい何がいいたいのかって?
 じつはぼくはいま、4冊の本を読みかけているんだ。おじさん、そう、おじさんでいいよね、おじさんのように4冊ともミステリならかっこういいんだろうけど、ぼくの場合はいろんな本をごっちゃに読んでしまうスタイルなのであまりおしゃれじゃない。ぼくって人間がそんなにおしゃれじゃないからしかたないじゃないか
 4冊も1度に読むと頭の中に入らないんじゃないかって人によくいわれるんだけど、ほんとうのことをいうといまちょっとした原稿を書かなきゃならないので、その資料、参考にと、もう5冊ほど多く読んでいる。でもこの5冊は最初から最後まで読み通すというのじゃなくて、必要なところだけでいいから、いってみればつまみ食いのようなものだね。
 これが締め切りが迫って、けっこう大変なんだ。自慢するわけじゃないけど、ここ数日お酒も飲まない夜が続いている。
 だったら必要のない本は何も読まなきゃいいのにっていわれそうだな。

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和田博温「焼酎はおもしろい」
著者・和田さんからいただいた。焼酎蔵を丁寧に取材し、じっくり味わい、楽しみながら書いたという雰囲気が漂う。
焼酎飲みのバイブルだ。


 ぼくは書くのが忙しくなればなるほど本を読みたいって思う質なんだろうか、明日がもう締め切りだってときも本を読まずにはいられない。それも自分が書いている原稿とはなんの関係もない本をだ。
 文筆を仕事としている人と話をすると、原稿執筆中は参考になる本以外や資料以外は読まないという人が多い。人の文章に引っ張られたり、気になったりするからだそうだ。ひと言でいうと影響を受けるということなのだろう。そうなるとぼくなんかは影響を受けやすいタイプだから、読んじゃいけないってことになるんだろうな。
 でもぼくは読む。そして影響を受けるどころか、うまいなあ、いいなあとつくづく感心してしまうのだ。ぼくはなんてへたくそなんだって。いま読んでる4冊もどれもとてもうまい。ぼくなんかとはまったく別物だなって感心してる。ほんとにぼくはへたくそなんだ。

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井上理津子「最後の色街 飛田」
「大阪下町酒場列伝」から注目してきた書き手だ。12年をかけて取材をしたというエネルギーと女性だからこその視点が、最後の色街を描き出す。あたかも織物を織り上げるように。


 でもそのことがわかればOK。べつに文章のうまいへたで書き手の値打ちが決まるわけでもないしね。
 ぼくはぼくだ。
 自分が書きたいこと、書かなければならないこと、書こうとしていることが、ちゃんとかけているかどうか、それが問題だ。
 誤解を恐れずにいうと、バーナード・リーチがいったように、模倣することと影響を受けることは次元の違う話だ。書いている最中にひとの本を読み感心する。そうだ、こんなふうに書けばいいのか、って。それを自分のことばにおきかえてみる。なるほどね、って。でもそれでおしまい。あとは自分の頭で考える。ぼくはへたくそだって自覚しているから、ひとのことばをまねてうまく書くなんて必要もない。ちゃんと書きたいという思いが強くなるだけ。
 それに、本を読むことも、文章を書くことも、考えることとイコールなんだとぼくは思っている。ぼくの「忙しい」ってときは、「考えたい」ってときなんだろうな。だから本に手がのびるのかもしれない。だけど、書かなきゃならない原稿そっちのけで本を読んだり、こんな文章を書いたりしてるから、ぼくの場合は「書かなきゃならない原稿は夜中に徹夜で書こう」ってなる。



第千五百十段 口舌の徒

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私のもうひとつの仕事場。鹿児島シティエフエムのスタジオ

 「無から有を生み出す」はまだいい方です。「売文稼業」もまだまだまし。ひどくなると「口舌の徒」などと呼ばれたりします。いや、私の仕事のことです。
 たしかに自分のいいようにものを書き、新聞や雑誌、あるいは書籍にして売り、なにがしかの金を得て生きている。うまく編集者をまるめこんで原稿料をせしめているようなもんだと、つい自嘲したくなるときもあります。
 おまけに私には湿っぽいカウンターと安酒の影がつきまとうようです。いやはやこれはもう、瘋癲(フーテン)といってもわからないだろうし、無頼といえばかっこうよすぎるでしょうか。まっ、まともな生き方をしていないことだけは、あたっているようようです。

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「清水哲男の鹿児島裏表」という番組を持っているが、これはその相方である

 経歴を問われると、さらにややこしくなります。大学は出たものの、まともな職には就かず35年以上過ごしてきました。そう、自分がネクタイを締めて毎朝通勤する姿など、想像することすらできなかったのです。アルバイトをして金が貯まると、日本を歩いて何周かし、海外も放浪しました。そして金が底をつくと、またアルバイトをする。それがそのまま生き方になったのです。お陰で職歴は、コピーライター/宅配便ドライバー/スナック店長/ホテル清掃/建築労働者/割烹の下働き/書店経営/屎尿処理車助手/客引き/ヒモ/作家とすさまじいものがあります。
 その間に、30冊以上の本を書いて出してきました。どれも売れない本です。先だってもある大学の先生から「資源の無駄遣い」だと笑われました。
 そんなとき、ふと考えこんでしまいます。私はなんのために生きているのだ、と。そして打ち消すように思のです。
 「そんな堅苦しいこと……、いいじゃないか、空気の中から言葉を紡いで、空気のなかに返す。一瞬でも触れた人が、なにかを感じる。多くなくていい。1人でもいればいい。んっ『無から有を生み出す』も『口舌の徒』も当たってるじゃないか」と。
 「でも……」FMラジオのパーソナリティの相方が言いました。「ちゃんと文字にしているだけでもマシかもですよ。世の中には言葉を電波に乗せて、それこそ一瞬に消してしまうという本物の『口舌の徒』だっているんだし」と。
 慰めてくれたつもりなのでしょうが、最近パーソナリティや講師、講演の仕事が増えた私はつぶやくのです。
 「ああ、ほんとうに口舌の徒だ。いっそのこと口先三寸で生きてやろうか」
 すると相方にすかさず突っ込まれました。
 「舌先三寸ですよ、口もダメですね」
 と。
 残念……。飲むしかないですね……。

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第千五百三段 断絶

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陶芸家竹之内彬裕氏の宋艸窯、工房入り口

 京都から鹿児島に越してきて2月5日で15年になります。京都でもそうでしたが、鹿児島でもいろんな仕事の現場を見てきました。それも大がかりな機械を使ってする仕事ではなく、いわゆる手仕事の現場が多かったように思います。そういう現場が根っから好きなのですと言ってしまえばそれまでですが、私の体内には、どうやらそういう手仕事を見るとわくわくする血が流れているようです。
 私は、わかっているだけでも6代200年以上続く京指物師の家に生まれました。200年という時間が長いのか短いのか、それは私の鹿児島での15年とおなじように一口で言えるようなことではありません。でも、黙々とひとつのことを代を継いでひたすら続けることの難しさはよく知っているつもりです。
 父や祖父は朝早くから夜遅くまで、薄暗い仕事場で木と向き合う日々をくり返していました。1日の作業が終わり、仕事場を片付けて、毎晩変わり映えのしない肴に舌鼓を打ち酒を飲む。楽しみといえばそんなものでした。それでも家業と家族の暮らしを守るために、いえ、そんなことすら口にはしませんでしたが、黙々と働き続けました。ましてや伝統を守るだの、文化を受け継ぐだの、そういう大仰なことは一切口にせず黙々と働き続けたのです。

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豚肉の食肉加工ライン。どんなに機械化がすすんでも、手作業はかかせない

 幼い私はよく仕事場に入り込み、父と祖父の仕事を飽きもせず何時間も眺めていたものです。小学校に上がった頃のことです。祖父は「当て台」と呼ばれる私専用の作業台をつくってくれました。私は学校から帰るとその前に座り、見よう見まねで木を切ったり、削ったり。もちろん何度も手を切ったり、指を削ったりしました。そしていつの間にか、ああ、自分もいつかこの仕事をするようになるんだなあなどと思うようになりました。
 でもそれは長くは続きませんでした。祖父が亡くなり、厳しいだけの父と2人で仕事場にいることが苦痛で仕方なくなったのです。今になって思えば、私が家業を継ぐものだと思っていた父が厳しいのはあたりまえのことです。しかし耐えられなかったのです。中学校を卒業したら同業者のところに修業に行けという父。高校に進みたいという私。職人に学問はいらないという父。職人だっていろんなことを知っていなければそいう私。すれ違いはいつか反発になり、対立になりました。
 それでも大学を卒業する頃に、私にも「家業を守りたい」「家業を継ごう」と思った時期もありましたが、「お前らみたいな半端な人間にはでけんわい」という父の言葉に、すべてを思い切りました。
 それ以来父とはいろんなことがありました。和解したいのに和解できない。話したいのに話せない。そのまま私は鹿児島にやってきたのです。

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1台1台ていねいに、指先からこころをこめるように

 これまでに見てきた仕事の現場を思い出してみました。
 種子島で有名な種子鋏や包丁に目もくれず、ただひたすら鍬や鋤、鎌といった農具を打ち続ける野鍛冶の老人。「おれっちゃ廃業したら種子島の野鍛冶はお終い。最後の野鍛冶だ」と笑う火傷だらけの顔が豪快でした。
 食肉加工センターの黒豚のラインで体毛を剃り落とす作業を続ける男性。毎日500頭ほどを手がけます。機械化がすすんでも、どうしても人の手に頼らなければならない作業があります。「日本の食を支えているという自負と誇りがあります」案内してくれた人はそう言って胸を張はりました。
 枕崎の鰹節製造工場。1日に4トンから5トンのカツオを身と骨に切り分ける「生切り」の工程。どんなに水が冷たい冬の朝も作業は欠かせません。6カ月、1年をかけてつくりあげる本枯節。この作業の出来が節の質を左右します。「鹿児島の地場産業というだけでなく、日本食の基礎を守り続けているのです」という言葉を裏付けるように、枕崎は日本で1ばんの鰹節産地です。
 高齢化がすすむこの社会にあって、介護用品、福祉用具を扱うビジネスはとても大切になっています。そこでもやはり人の手が生きていました。福祉用具のメンテナンス、修理は1台1台手間と時間をかけてていねいにすすめられていきます。「新品よりも慣れ親しんだものの芳がいいという高齢者の方が多いので……。事故があっちゃあいけないので気が抜けません」手を休めることなく話す真剣な目が印象的でした。

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圧倒的なスピードで、しかし確実にカツオをさばいていく。まさにプロの手技だ

 ほかにもたくさんの現場をめぐりました。いまもめぐり続けています。そしてどの現場に行ってもかならず思い出すことがあります。それは、京都のあの薄暗い仕事場で並んで汗を流す父と祖父の姿です。時々それは父と私になったりするのです。
 父は年が明けて85歳になります。最近は足元も覚束なくなり、ずいぶんからだも小さくなりました。80歳になった日です。
 「老いには勝てんなあ……」
 という一言を最後に店仕舞い、ええ、廃業を決めました。
 代々使い続けてきた道具は、油を引いてひとつずつ新聞紙に包んで箱にまとめ倉庫に仕舞ったと聞きました。
 京都に帰った折、こっそり倉庫に行き、箱を開けて道具を取り出してみました。そんなことをしたところで、何がどうなるということでもありませんが、もう一度父や祖父が使っていた道具をこの目で見たいと思ったのです。
 5年も経つので少しは錆びているかなと思いながら鑿の包みをひろげてみると、まるで昨日研いだばかりとでもいうように鮮やかに光る刃先が出てきました。どうやら使うあてもないのに、父は時々、少しずつ取り出しては研ぎをかけているようでした。
 その時、私はつぶやいていました。
 「ごめんな」
 それはいま思い返しても、だれに言ったのか、わかりません。
 私の家の家業は6代で途絶えたのです。

第千四百九十六段 通って楽しんで1年

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 3日続けて初めての店に入ってみました。
 年末という忙しい最中こそ、そのお店の実際が見えてくるのです。だから私は年末年始に、結構新しいお店に飛び込むのです。そして気に入れば1年をかけてじっくり通うのです。ほんとうに気に入れば、人に紹介したり、いろんなところに書いたりするわけです。もちろん書かせていただく場合は、ちゃんとお話をして、あらためてお話を聞かせていただくという作業をするのです。1年も通うといろんなお話を聞かせていただけるようになります。
 逆にいうと、突然、取材させてと飛び込んで取材をした気になっているライターさん、たくさんいますが、それってそのお店にとっても失礼だし、いわゆる「情報」しか聞き出せないのです。大切なのは「物語」、そうストーリーを聞き出すことなのです。ね、いま流行りの情報雑誌を思い浮かべるとよくわかるでしょう。似たような「情報」ばかりで、個性なんて感じられないし、適当に書いて、適当に撮って……。ライターや、カメラマンが楽しみながら仕事をしているとは到底思えません。やっぱりまず自分が気に入って、好きにならないとね。

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ビアライゼさん

 私はといえば、1年をかけて通い気に入ったお店、今年はずいぶんたくさん出会うことができました。
 まず二官橋通り界隈では、いわし料理の「おはし」さん。にしんそばがおいしい「有里庵」さん。本格的フレンチが楽しめるビストロ「谷山」さん。唐揚げがおいしい鶏料理の専門店「一保」さん。唐揚げからうなぎまで安くておいしい「一代」さん。
 地蔵角界隈では、豚ホルモン串焼きの「天文館再生酒場」さん。豚ホルモンでも、こちらは七輪炭火焼き「太州」さん。お手軽割烹の「あぜち」さん。ギネスの樽生が飲める「ビアライゼ」さん。ブルースがかかるバー「SOHO」さん。
 文化通り界隈では、貝汁と焼き魚がおいしい「山椒」さん。坊津久志からの新鮮な魚と日本酒が楽しめる小料理「一久」さん。びっくりするほど安い「雀寿司」さん。昭和の香り漂うカラオケパブ「キャプテン」さん。
 その他山之口町では、お総菜がずらっと並んだ居酒屋「風」さん。七輪炭火焼き「福屋」さん。東千石町の「十五郎そば」さん。こちらはお酒も肴もいろいろあって、しっかり飲めるおそば屋さんです。
 とまあこんな感じですが、今日はここまで。まだまだたくさんあって、追々じっくり紹介していきます。
 
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太州さん

 ところで新しく入った3軒のお店ですが。それはこれからのお楽しみということで……。乞うご期待。

第千四百六十三段 種子島取材ノートより(2)

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西之表市西之表国道58号より馬毛島を望む

「再び種子島へ」、取材進んでいます。
 今日は、その取材ノートから〈馬毛島遠望〉を。

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〈馬毛島遠望〉

 「私はもうよそ者ですから……」
 原田誠一さん(45歳・仮名)は力のない笑いを浮かべた。自嘲気味というのがいいかもしれない。
実際に馬毛島(まげじま)に住んでいた人を、鹿児島市内でようやく見つけたのが彼だった。彼は昭和41(1966)年馬毛島で生まれ、昭和55(1980)年4月21日の全島引き上げまでの14年間をそこで過ごした。

 馬毛島。種子島の西方沖合12キロに浮かぶ無人島が、いま大きく揺れている。この小さな無人島が在日米軍再編に伴う米軍空母艦載機離着陸訓練(FCLP)の移転候補地になっていることが明らかになったからだ。いまここでは問題の詳細に触れないが、賛否様々な声が地元はもとより各地、各所から上がっている。
 島の大半を所有している企業の経営者は盛んにメディアに登場し、喧しく時論を展開している。あたかもこれが「地元の声」だといわんばかりに。隣接する種子島西之表市はもちろん、中種子町、南種子町、屋久島からも様々な声が上がる。もちろん「地元」としての声だ。
 だが、故郷に降って沸いたような話を、そこをいちばんよく知る、そこで暮らした人たちがどのように受けとめているのか、今後の取材のためにもそれを知りたいと思った。これは、原田さんへのインタビューを、簡単にまとめたものだ。
 まず、馬毛島の正確な位置・姿をデータで示しておく。

   北緯 30°45′ 東経 130°51′
   周囲 16.53km 南北 4.5km 東西 3.03km
   面積 820ha 標高71.1m

 無人島では、北海道松前郡松前町の渡島大島(おしまおおしま)に次いで2番目に面積が大きい。

 「高い山こそありませんでしたが、自然の豊かなところでね。ありきたりな言い方ですが、いいところでしたよ」
 原田さんは思い出の中のおもちゃ箱をひっくり返しているかのように、いたずらっぽく笑った。彼の家は、彼の祖父の代に馬毛島に入植した。昭和26(1946)年のことだ。サツマイモとコメを作る農家だった。一緒に入植したのは40世帯ほどだったという。その後世帯数は増えていく。最盛期は昭和30年代半ばで、記録によると世帯数は113、人口は528人となっている。
 「トビウオ漁の漁業基地だったことはよく知られているけど、農業や畜産業も盛んだったんですよ。製糖工場もありましたもんね」
 これは彼の記憶の中での話だ。彼が生まれた時、製糖工場はすでに閉鎖されていた。
 世帯数、人口がピークを迎えるちょうど同じ頃、害虫(アリモドキゾウムシ)が発生しサツマイモの作付けが制限される。農家はサツマイモをあきらめサトウキビを導入するとともに製糖工場を誘致したのだ。しかしそれも彼が生まれる前年、昭和40(1965)年閉鎖される。その後出稼ぎ、離島が相次ぎ世帯数、人口とも減少の一途をたどる。

 原田さんの思い出にもどろう。
 「後で、そうですね、馬毛島を離れて、種子島を離れて、大人になってからの話ですが、小さな島なのに自然の宝庫だったということを知りました。そういえば、そうだったなあって。海岸からはイルカやマッコウクジラの群れが泳いでいるのが見えたし、ウミガメが卵を産みに上がってきたり。その海岸線には珊瑚の群落がありました。それを大人になってから学術的な知識で確認するんですよね」
 彼は照れくさそうに笑いながら、私に教えるように話してくれた。
 馬毛島は黒潮のただ中にあり、南方系、北方系の植物が狭い範囲に分布・共生している。その種類は約430種類。中にはホソバアリノトウグサという固有種もある。渡り鳥が羽を休めるポイントとなり、見かける野鳥の種類も多い。彼の記憶の中には家の裏をゆっくり歩くキジの姿があった。キジとマゲジカは島中至るところを我が物顔で歩いていたそうだ。
 「国立公園の候補にもなったそうですよ」珊瑚群落の美しさ、海藻類、岩礁生物群の豊富さがその理由だったという。「オカヤドカリっていうヤドカリが天然記念物に指定されていたそうですが、ヤドカリってどこにでもいたので、どれがそれだったのかはわかりません。マゲジカの糞にいっぱい虫がたかっているのをよく見かけましたが、クロツヤマグソコガネていうんだと後で知りましたが、そんな虫もいたなあ……。島の南のほうで『椎ノ木遺跡』っていう弥生時代のものだっていう人骨の埋葬跡が、石斧や土器といっしょに発見されたりね。子どもにしてみれば、自然の水族館、博物館のただ中で暮らしていたみたいなもんです。国立公園の話もね、結局はトビウオ漁が制限されるんじゃないかって声が出て前へ進まなかったって聞いています。もしそうなっていればね……」
 そこまで言うと彼は言葉を飲み込んだ。

 そんな原田少年の意識のおよばないところで、故郷馬毛島の苦悩の歴史がはじまる。背景・詳細についてはいまは触れない。事実だけを列記する。
 減り続けた世帯数、人口は、45年('70)に78世帯284人、50年('75)58世帯180人となった。その間、旧平和相互銀行が設立した馬毛島開発株式会社によるレジャー施設開発計画が進められるが頓挫する。53年('78)馬毛島に石油備蓄基地を誘致する構想が発表され、55年('80)2月1日石油国家備蓄基地の立地可能性調査地に決まる。呼応して4月1日、全島民が馬毛島を離れ無人島となった。結果的に石油備蓄基地は志布志湾に建設され、馬毛島は結果的に取り残されることになる。
 しかし馬毛島は忘れられたわけではなかった。この小さな無人島の名がことある毎にニュースに取り上げられた。
 「自分の住んでいた小さな島がね、ことある毎に世間の耳目を集めるんですよ。なんだか妙な気分でしたね。元の平和相互銀行の不正経理事件でしょ。防衛庁にレーダー施設を建てるための用地を売却するのに、闇資金を政界にばらまいたとかなんとかって話ですよね。それからはもう、放射性廃棄物処理場だとか、使用済み核燃料中間貯蔵施設だとか……。そうそう、南種子のロケットセンターとセットになった日本版スペースシャトルの着陸場っていうのもありましたね。で、今回の自衛隊施設とFCLPでしょ。きっと種子島の人はまたかって感じでしょうね」(原田さん)

 そこで、彼にたずねた。
 「原田さんご自身は、FCLPにどのような感想をお持ちですか」
 「私はもうよそ者ですから……」
 「それは、間近で暮らしている人の意志で決めればいいということですか」
 「ええ、私は遠くからながめているだけです」
 高齢ではあるが、両親はいまも西之表市の馬毛島がよく見える集落で暮らしているという。
「島の上空を戦闘機が飛ぶかもしれないし、そんな光景を両親が見たら悲しむかもしれませんが……」
彼はそこから言葉を継ごうとしなかった。
 彼が「よそ者」だとしたら、この計画を東京で推し進める政治家、官僚、そして土地所有者は、もっと遠くでこの島をながめているのではないだろうか。その視線は、彼の両親の思い、かつてその島で暮らした人々の思い、近くで暮らす人々の思い、そして島を遠く離れた者の思いなどは、決して見えていないに違いない。
 「じゃあ聞き方を変えます。もしも国立公園になっていればどうなったと思いますか?」
 「それはまた、違った風景になっていたでしょうね」
 話はそこで終わった。

 原田さんの話を思い浮かべながら遠く馬毛島をながめた。
 そこに動くものは、何も見えなかった。そこから響いてくるものは、何も聞こえなかった。
 ただ何かが蠢いている。そんな気がした。


このブログは、「種子島再発見地図帳」(仮題 2013年初夏上梓予定)取材ノートとして、月2回程度更新する予定です。
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第千四百五十三段 ふたたび種子島へ

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26日、27日両日、種子島に出張していました。
取材のための取材、のようなものです。
種子島について2冊目の本を書こうと思っています。
そのための取材ノートをブログで公開することにしました。
題して「種子島再発見地図帳 取材ノート」です。その1回目をこちらでも。


〈序 ふたたび種子島へ〉

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2011年7月26日。11年ぶりの種子島は、土砂降りの雨の中だった。
正確にいうと、この11年1度もこの島を訪れたことがなかったのではない。人に会うためや、少々の取材のために日帰りや1泊で訪れたこおとはたびたびあった。だが今回は違う。2001年に「種子島へ」(再海社)を上梓して以来、再度の長期取材だ。この取材の成果は、2013年初夏に上梓されるはずの書籍となる。2年におよぶ取材の最初の1日なのだ。だから、
「この雨はお世辞にも幸先がいいとは言えないな」
などと独り語ちながら、車を南に向けた。

11年前、とぼとぼ歩いた国道58号を車で南下する。
国道58号は、国内最長の国道だ。鹿児島市城山の麓、西郷隆盛像前を起点にして種子島、奄美大島を経て沖縄名護市を終点にする。海上も含め総延長は873.5キロにおよぶ。種子島では、西之表市漁港前を出発し中種子町を縦断、南種子町島間港までのおよそ40キロが走る。前の取材では2日をかけて寄り道しながら歩いた。
「まだまだ若かったということだな」
今回は躊躇することなく車を選んだ。
走り出して間もなく、フロントガラスに激しくたたきつけられた雨が滝のように流れる。ワイパーが振り切れんばかりに働く。カーラジオで知ったことだが、隣の屋久島では尾之間では降りはじめから183ミリという猛烈な雨が降っていた。

ゆっくり歩けば2日かかる道のりも、車なら1時間で着く。
南種子上中で右に折れて島間港をめざすか、直進して角倉岬をめざすか、一瞬考えたが答えが出る前にハンドルを右に切っていた。
「島間港に何があるというんだ」
島間港からは屋久島宮之浦港と結ぶフェリーが出ている。
自分でも不思議だったが、なぜか屋久島が気になっていた。
「島間から屋久島が見えるか……。馬毛島も見えなかったじゃないか」
晴れた日でも屋久島は、厚い雲に覆われ自らの全貌を現さない。神秘の島はそう易々と姿を現さないのだ。しかもこの雨だ。だからこそその輪郭を見てみたいという思いに駆られた。
「見えるはずないじゃないか」自嘲しながらも微かに期待をする。そして思う。「この取材の成否を占おう。見えれば吉だ。見えなくても凶は無し!」
島間港の手前で雨は上がった。ひょっとすると、と期待は膨らんだが港に車を止め防波堤に上がったが、海上は靄がかかり遠くを見晴らすことができなかった。
思っていたとおりだ。仕方がない。運に任せず、働けということだろう。
種子島最南端角倉岬をめざすために、気持ちを切り替えて来た道を引き返した。

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海岸からの上り坂で携帯が鳴った。
路肩に車を止めて電話に出た。
鹿児島に残してきた仕事の段取りを話しながら、何気なくバックミラーに目をやった。
「あっ」
電話の相手が驚いたのは当然だ。
私からかけ直すとことわり電話を切った。
見えないはずの屋久島が、バックミラーの中にそびえていた。
車を降りて上がって来た坂を見下ろした。海の向こうに見えるのは、たしかに屋久島だった。いくつもの頂が連なり、いくつもの山影が重なるその姿は、穏やかさと厳しさを兼ね備えていた。見たいと思っていた屋久島の輪郭がそこにあった。
少しでも近づきたいと思った。
再び坂を下り、途中から国道を離れ、県道75号に入った。島間から角倉岬まで屋久島を右手に見ながら県道を走ることにした。
晴れた日でもその全貌を現すことのない屋久島が、土砂降りの雨の合間に、しかも私のためだけに姿を見せてくれたような気がした。
自分の強運を思った。
長い取材がはじまろうとしていた。

第千四百二十九段 なにやってんだろ私

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文筆業というと、ほとんどの人が、書斎や仕事場にこもってペンを握っていると思われますが、じつは全く違うのです。1週間の大半を外で過ごし、ペンを握って座っている時間など、ほんのわずかなのです。
えっ、なぜかって。そんなことで文章が書けるのか、って。たしかにそんなふうに思われるのは当然です。しかし、ちょっと考えてみてください。人間の頭の中って、ほとんどが空っぽなのです。あっ、言い過ぎました。私の頭の中ですね。ほとんど空っぽなのです。だから何を書こうにも、まず何がどうなっているのかを確認することから、つまり取材をすることからなんです。取材で頭の中を満たさないと、文章など書けないのです。徹底的に「取材する」ことが「書く」ことの第1歩。第2歩は「考える」こと。そして最後に「書く」。ええ、取材などしなくても書くことはできます。しかしそんな文章は何のリアリティ=現実感もない、単なる思い込みの文章なのです。

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となると落ち着いて「書く」ことに向き合えるのは、周囲がお休みの時になります。昨日の日曜日などはまさにうってつけの日でした。大雨でスケジュールのいくつかはキャンセルになり、午後からのラグビー早慶戦の観戦も取りやめにして、まとめた時間を執筆に充てようと思ったのです……。いや、思ったのですよ、ほんとに。
原稿用紙に向かい、万年筆にインクを入れ……。普段使っている万年筆はもう30年以上握り続けているもので、とても馴染んでいるのですが、スポイトの調子が悪くて修理に出しています。修理代、また高くつくんだろうなあと、ついついため息が。
取材用のノートを拡げて、と。ここ数年トラベラーズノートを使っています。カレンダーとスケジュールは携帯に任せて、メモを書き付けるためだけにちょうどいいシンプルなノートです。レザーのホルダーにノートをバインディングするのですが、2冊以上はさむとちょっと無様だな、と。私は3冊はさんでますから……。
ところで、フェースブックっておもしろいよね……。

などといろんなことが頭に浮かんできて、そのたびに思いがとらわれて、結局1日かけて、たった4行しか進みませんでした。なにやってんだろという私でした。

第千四百四段 そして夜は「反省会」

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さて、連休まっただ中です。「清水さんはいいですよねえ。年がら年中連休みたいで」とはよくいわれることです。ええ、気楽ですよ。でもね、私が1日ずっと何もしないで休むなんてことはないのです。1日のうちの数時間は、かならず資料に目を通したり、原稿を書いたり、本を読んだり……、なにがしか仕事(のようなこと)をしているのです。お正月もお盆もそしてGWも、まったく関係ありません。一昨日買ってきたのは「BRUTUS」の最新号とバックナンバー。それに書庫から「ニンニク農園の12ヵ月」と「底抜けビンボー暮らし」を引っ張り出してきました。

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いま枕崎の鰹節製造会社の仕事をさせていただいていますが、たとえば「鰹節屋の12カ月」みたいな本ができないか。そんなことを考えているのです。敬愛する松下竜一さんの「豆腐屋の四季」のような、何の変哲もない鰹節屋の日常を、普通の文章で綴る。それも私が書くのではなく、鰹節屋の奥さんに書いてもらったらどうか、などと考えているのです。それでいま、鰹、鰹料理、鰹節、出汁などということを調べているわけです。

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ここしばらく触れる機会の多い食肉加工業界同様、私たち食べる側が知らない、いいえ知ろうとしない作り手の苦労。もっとも作り手の人たちはそれを苦労だとは思わないでしょうが、そういった苦労には目を見張るものがあり、そういった苦労が私たちの食生活を豊かにしてくれていることを、多くの人に知っていただきたいと思っています。そんなことをこの連休中実際にいろんなところに足を運び、話を聞き、考えて見たいと思っています。

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そして夜は天文館で「反省会」です。

第千四百三段 いらっしゃい!

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食肉加工の取材、続けています。先だってはと畜、解体、食肉加工の現場を見てきました。今回は天文館地蔵角近くの豚ホルモン専門店「天文館再生酒場」さんの開店前にお邪魔して、私たちの口に入る直前の「仕込み」を見せていただきました。店長の藤元翔平さんにお話を聞きながら、プロの仕事をつぶさに見せていただきました。ありがとうございました。仕込みの時間は毎日午後2時くらいから3時間あまり。その間に300本から400本の串が打たれます。

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下茹でされ同じサイズに切り分けられた「丸腸」です。丸腸は、小腸を裏返したもの。 油の付いてるほうが小腸の外側です。鉄板や網で焼く焼き肉などの場合、小腸は切り開いてホルモンとして出されます。こうして裏返すと脂が内側に閉じ込められて、食べたときに口の中でじわっとひろがるわけです。丁寧に串に刺していきます。

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「しろ」、大腸ですね。切り開き、きれいに洗浄・掃除して下茹でしてあります。モツはすべてにわたっていえることですが、洗浄するところからはじまります。食肉加工センターではモツ、内臓は「副産物」と呼ばれ、専門の業者さん、もしくは食肉加工卸業者さんの手で、洗浄加工して販売されることがほとんどです。ですからこちらでは、仕込む直前に串焼きに適するように整えて下茹でするところから作業が始まるわけです。

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1本およそ30グラム。いちいち量らなくても大きさもグラム数も目分量でぴったりそろいます。こちらのお店では大腸を「しろ」、直腸を「てっぽう」と呼んでいます。一般的には大腸は「テッチャン」と呼ばれていますが、これは韓国語で大腸を「대장(テチャン)」というところからきています。いずれにしろ、先の「丸腸」「シロ」「てっぽう」それから下の「センマイ」「がつ(胃袋)」など消化器の大半を「白物」と呼びます。

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これに対して「レバ(肝臓)」「ハツ(心臓)」「ちれ(脾臓)」などを「赤物」と呼びます。そのほかに「はらみ(横隔膜)」「たん(舌)」「こめかみ(頭肉)」、いまブームのようになっている「とんとろ(頬から肩にかけての首の部分)」などがあります。これらは農林水産省が定めている「食肉小売品質基準」には部位として含まれません。これらを総称して「もつ(内臓肉)」と分類しているのです。これは「なんこつ」。塩でもんで洗うとこんなにきれいな色になります。これは下茹でせずにそのまま串に刺します。1本に2頭分。考えて見れば贅沢です。

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左側が「センマイ」です。胃袋ですね。これを表面を湯むきしてきれいに掃除します。すると、ほら、まるでイカのようにきれいになります。こちらではこれを「白センマイ」としてお刺身でいただけます。この通り、あっという間に串ができあがっていきます。

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いずれにしても私たちの口に入るまでに、実に多くの人々の手仕事を経ているのです。そのお陰で私たちは美味しく、楽しく過ごせるわけです。忙しい時間に取材させていただいた「天文館再生酒場」さん、ありがとうございました。そろそろ開店の時間です。

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「はい、いらしゃい!」

第千三百九十五段 言葉では何とでもいえる

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やはり私は、食べ物とお酒の話を書かないとらしくないということなので、ご期待にお応えしてお肉の話を。これはステーキハウスとりまるさんのテンダーロインステーキ(220g)です。極上のフィレ肉を使いさっと焼き上げ、肉自体の旨味が堪能できる逸品です。

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こちらはビストロ・エッサンス・ド・タニヤマさんの牛ほほ肉の赤ワイン煮込みです。丁寧に下ごしらえをしたほほ肉を赤ワインでじっくり煮込んだ絶品です。

しかし世の中には、私などが口にしたことのないような上等のお肉を食べておられる方も大勢おられて、「この程度で喜んでいるようではまだまだですね」と笑われてしまいそうですね。でも、私は自分の「食」を自慢しているのでも、ひけらかしているのでもありません。ただただ自分で楽しんでいるのです。ですから異論も反論もなんでもご自由にどうぞ。

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ところで、お肉はどうやってお肉になるか、あなたはご存知ですか。お肉は最初からお肉だったわけではありません。そんな話をすると、この人はいったいなにをバカなことをいっているのだろうと思われるかもしれません。ちょっと考えればだれにでもわかることです。お肉は牛や豚、鶏、馬などを殺してつくるのです。そう、お肉はつくられているのです。でも多くの人は、あたかもお肉は最初からお肉としてそこにあるといわんばかりに、肉質や味のことばかりいいます。美食家と呼ばれている人の中で、いったいどれほどの人がお肉を「つくる」現場の事実を知っているでしょうか。

牛や豚を殺す光景に、多くの人が「そんな残酷な」と思うにちがいありません。多くの人々はお肉を「つくる現場」などできれば見たくないと思っているのです。あるいはその現場で働く人を、蔑んだり、見下したり、特別な思いを込めて見ているかもしれません。差別です。でも、できあがったお肉は美味しいといって食べるのです。鎌田慧さんは著書『ドキュメント屠場』の中で指摘しています。「肉を食べながら、肉を生産する労働現場を差別するのは、自らのからだを差別するのと同じ」だと。

いいかえると、お肉を生産する現場を差別するのは、その場が「労働の現場」「生産の現場」としてではなく、「死の現場」「残酷な現場」「穢れの現場」として扱われるからです。だったら、生産されてくるお肉をおいしいおいしいといって食べる自分の体も「死の受け皿」「残酷な器官」「穢れの最終地」と扱わなければならないということです。言葉では何とでもいえます。いのちに感謝していただく……。しかし事実の前にその言葉は虚しくなるばかりです。

これからしばらくそういった現場の取材に入ります。そのために多くの資料を調べ、読み、理解しようとしています。その作業の中で自分の考えの曖昧さ、中途半端さを突きつけられる日々が続いています。
こんなん書いてます
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天文館歩いてます
清水哲男(しみず・てつお)
鹿児島に移り14年。南九州最大の繁華街、天文館を歩いて14年。天文館の見所、注目の店、グルメ、祭り・イベント、まちづくり、そして裏話。
京都市出身。市井の人々の暮らし、労働の現場に入り、自分が見たこと、聞いたこと、体験したことを頼りに思考し書き続けている。1997年より鹿児島市在住。好きなものは酒、居酒屋、カウンター、そして女。天文館はホームグラウンド。夜な夜なあちこちのカウンターでへらへらしている。天文館の酒場巡りは「天文館酒場巡礼」へ。

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